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Oct.09.2006  鈴木亜久里は友達じゃない。

 

 

 

 


亜久里はよく私のことを、「僕の友達じゃない」と言うし、私も、「亜久里は私の友達じゃない」と言う。冗談とも言えるし、ある意味、事実でもある。と言うのは、正確に表現するなら、私は亜久里の父親のジャッキーの友達であり、亜久里は友達の息子ということになるからだ。
土曜日、そのジャッキーが鈴鹿に現れると聞いて、たいした用事も無かったが、久しぶりにmaseratiを駆って会いに行った。ジャッキーとしょっちゅう会っていたのは、40年以上も昔の、浮谷東次郎や生沢 徹、本田博敏などという若者が自動車レースにのめり込みつつある時代で、私なんか弱冠19〜20歳くらいの青二才の頃だった。
よく覚えていないが、ジャッキーと会うのはかれこれ35年ぶりにもなるだろうか。
たしか、私より9〜10歳ほど上なので、もうかなり高齢のはずだし、だいぶくたびれてきたよと言う噂も聞いていたので、どんなよれよれの爺が現れるのかと心配していたら、ピットロードに立つジャッキーはかくしゃくとして声の大きな話しっぷりも昔のまま、毎夜、キャバクラに入り浸っているといわれれば信じるほど元気なジャッキーが現れた。

ジャッキーに会った瞬間、鈴鹿サーキットのピットロードの時空がワープして、1965年あたりのクラブマン・レースのピットに戻っていた。浮谷はよれよれのレーシングスーツに相変わらずのスリッパを履いてうろうろしている。時々、徹ちゃんが浮谷に内緒話をしに来る。何かよからぬ相談をしているようだ。博ちゃんは、何だかんだと言いながらも手伝ってくれる。現在のGTレースとは比べ物にならないが、常連の、レースが大好きな女の子達もいて、それぞれいろいろなカップルも出来つつある。
レースのことしか頭に無かった当時の私は、なんとなく、みんな仲の良い友達だと思っていたが、今から考えれば、いろいろなカップルが出来上がっていたようだ。
突然、私の脳裏に、いつも私の傍にいた芦屋のお嬢さんのことが浮かび上がってきた。彼女のお父さんも鈴鹿を走っていたのでいつも付いて来ていたが、その内、レースが大好きになり、一人で愛車のスポーツカーを運転してやって来るようになった。いつも私の傍にいてくれたが、当時の私はそうとう鈍かったようで、ずーっと友達のままで終わってしまったことを、今更、後悔しても始まらない。
パドックの夕暮れ時は、夕日がとても切なく感じられる。問題は、どこで夕食を食べるかに尽きるが、切なさは財布の軽さが主たる原因だ。とにかく、徹底的にお金が無かったし、例えあったとしても昼間に使い切っているから、何をどこで食べるかというより、どうして晩飯に有りつこうかと言うことが先決だった。たまたま、その日お金を持っている仲間がいたら食らいついて離れない。食事というより食餌という時代だった。
夜は、鈴鹿サーキットホテルの四人部屋が定宿だが、いつも6人くらいは泊まっていて、(金も無いから)お酒も飲まずに、みんなでひたすら喋り続けた。そんな時代、我々の中でも年長だったジャッキーは、年上と言うだけではなく、その親分肌の性格からもリーダー的な存在だった。
ただし、いろいろな武勇伝からも判るように評判の暴れん坊で怖い存在でもあった。
いわく、本田宗一郎を殴った唯一の人間だとか、博ちゃんの乗ってきた車をぼこぼこにしてしまったとか武勇伝は尽きないが、反面、本田宗一郎さんに可愛がられていたために、成長期のHONDA向けの仕事を引き受けろとたびたびビッグチャンスを与えられたが、レースに夢中で全てを断ってしまったというほど一途な性格でもある。

私といえば、同級生の鮒子田と朝から晩までアルバイトに明け暮れ、夜中は、自宅の車を持ち出して朝まで山道を走り回り、日曜日には、その稼いだバイト料を握り締めて鈴鹿参りを続けるうち、浮谷や博ちゃん達とも知り合いになり、建設途中の富士スピードウェイで遊んだり、船橋サーキットで浮谷と生沢の対決を手伝ったり活動範囲を広げつつ、浮谷と「カラス」を作ることになり、初レースで優勝したと思ったら突然訪れる浮谷の他界。ものすごくいろいろな出来事が重なり、すごく長い時間のように感じるが、思い返せばほんのひと時の出来事だった。

今、鈴鹿サーキットで向かい合うジャッキーと私は、40年近くの時を隔てても、同窓会での再会の時、「おい」「お前」と呼び合うように、昨夜、夜中までピットでS600の整備をしていた次の日の朝の気軽な挨拶みたいに、何事も無かったように世間話が始まった。違うのは、話の内容が、思いっきり昔話ばかりだということである。

当時、たしか4〜5歳だった亜久里がもう少し成長した頃、カートに乗せ始めたと聞いた。
亜久里に夢を託したジャッキーは、自分の指定したタイムで走れなかった亜久里がピットインしてきてヘルメットを脱ぐと、その頭を思いっきりガソリン缶で殴りつけていたという。英才教育というより暴力教室である。
反面、家を建てるために買っておいた土地を手放してもフォーミュラを買い与えたり、亜久里がなかなかF3で勝てなかった頃には、何回も私に電話してきて、「何とか勝たせてやってくれ」と頼まれたり、とにかく一生懸命だった。
その頃、童夢はF3とは無縁だったので何も出来なかったが、暇だった亜久里は、毎日のように、当時の童夢東京事務所に遊びに来て時間をつぶしていた。
そういうことを思い出すにつけて、つくづく、亜久里はジャッキーの渾身の作品だなと思うし、「亜久里を頼む」という言葉も思い出した。

私は、今回の亜久里のF1参戦は何かの間違いだと思っているし、恥ずかしい出来事だとまで思っている。亜久里にではなく、亜久里にそうさせた環境がである。
以前の私でも、ある程度お膳立てがそろっていて、少しでも実現の可能性があれば、後先考えずに飛びついただろうし、亜久里の場合、曲りなりにでも参戦が実現しているのだから、亜久里が飛びつくのは当然だろうが、だからと言って、この参戦に何の価値や意義や意味があるのかと言うと皆無としか言いようが無いし、モータースポーツによるヨーロッパへのODAがひとつ増えただけである。
100億からの大金を飲み込んでしまうF1という怪物の餌の確保に苦悩する亜久里は見ていても気の毒なほどだったが、もとより、私の手に負えるスケールではなかったし、何よりも自業自得だと突き放していた。
しかし、私が「童夢-零」を製作したときも、スタート時には、開発費の半分にも満たない予算しかないのに見切り発車していたし、ましてや、生産化への具体策など何も無かった、というより、いくら具体策を練っても原資のあてが無い以上、どんな立派な内容の計画にしろ、絵に描いた餅にしか過ぎない。だからと言って止めていたら今日の童夢は無い訳で、まだ若い亜久里のはやる気持ちは充分に理解できるものの、私には、「何のため?」という基本的な疑問の答えすら見えない。
しかし、どんな形の参戦にしろ、亜久里にとってこのチャンスはかけがえの無い経験になるだろうし、ギャンブルは、負けることも多いが勝つときもある。亜久里は全てを投じてルーレットの一点張りに賭けたようなものだが、微力な私としては、亜久里がこの大冒険から無事に生還することを祈りながら見守るしかない。
だが、息子の活躍を目の当たりにして喜ぶジャッキーを見ている内に、私も亜久里の保護者のような気分になってきて、意義とか意味の前に、単純に、友達の息子だから協力してやらなくちゃというスタンスもあるなと思えるようになってきた。

ほとんど、ジャッキーに会うためだけに訪れたようなもので、2時間ほどでサーキットを後にした。最近は、少し近道になる竜王インターからのルートを使うが、帰り道は、昔、何百回も通いなれた栗東インターのルートから帰ることにした(当時は栗東までしか完成していなかった)。道すがら、このドライブインの豚汁はうまかったとか、ここでスピードの取締りをしていてみんなで逃げたとか、怖いことに、走っているうちに、次のコーナーまで思い出してくる。
だんだん、私のmaseratiがS600になってきて、当然のように、いつもの(当時の)抜け道にハンドルを向けた。昔は、このぎりぎりの路地をぶっ飛ばしていたんだから危ないことをしていたなと、今更ながら肝を冷やしながら国道に出る曲がり角を曲がろうとしたところ、どう考えても曲がれない。えーーっ、ここを曲がれなければ、どこまでバックしなきゃならないんだと後ろを振り向くと、まるで後ろが見えない。そこでやっと気がついたが、昔、ここをすいすいと通れていたのはS600だったからで、今、乗っているのはquattroporteだ。しまった!と思った途端、さらなる悲劇がやってきた。私が通るのを見て近回りできると思った車が何台も付いてきていて後ろにつかえてしまった。
更に、ガソリンはサーキットを出る時からエンプティのランプが点いている。何で私がここまで過酷な試練を与えられなければならないんだとわが身を呪いつつ、車を降りて、後続の車に少しづつ下がってもらい、やっと農家の庭先に車を入れて後続車をやり過ごし難を逃れた。これだけで1時間を要し、とても約束の時間に間に合わなかったので、その後はまたS600に戻り、ひたすらぶっ飛ばして帰ってきたが、これは昔のリズムそのままだった。

前しか見てこなかった私が、少しでも後ろを振り返るようになったのは、やはり歳のせいだろうか。今まで、昔にデザインした車を見ると、ただただ恥ずかしいだけだったが、先日、TVの取材で「童夢-P2」を走らせた時は、走るP-2を見ながら、もうこのデザインは出来ないと思った。35年ぶりにもなるサーキットでの再会によって、私の頭にもバックミラーが装着されたようだ。旧友の息子の成功を心から願っている。