童の夢は、1965年に林みのるが HONDA S600を改造したレーシングカー"カラス"を製作した時から始まりました。しかし、当時の日本では、レーシングカーの開発がビジネスとして成り立つ土壌は無く、資金が尽き果てた林はレーシングカーの開発を止めざるを得ませんでしたが、どうしても車造りを諦めきれなかった林は、数年後の1975年、それまでに培ったレーシングカーの開発技術を活かして、スポーツカーの少量生産メーカー設立を目指し、童夢プロジェクトをスタートさせました。
1978年には「童夢」としての第1号作品であるスーパースポーツカー「童夢-零」が完成、同年の第48回ジュネーブショーにて発表、たちまちショーのハイライトとして脚光を浴び、一躍、東洋の無名のカロッツェリアの名前が世界中に知れわたる事になりました。同じ頃、「童夢」は正式に株式会社として登記を行い、京都宝ケ池に本社を建設し本格的に活動を開始しました。しかし、「童夢-零」は 日本国内の車輌認定を取得すべく努力を続けましたが、法律以前の問題で役所の厚い壁に阻まれ断念を余儀なくされました。
しかたなく童夢は、アメリカでの車輌認定に活路を見出すべく「DOME USA.INC」を設立すると共に、生産型プロトタイプとして開発した「童夢-P2」をアメリカに持ち込み車両認定に挑み、めどが立ちかけた頃、当時、爆発的なヒット商品となって童夢に多大なロイヤリティをもたらしてくれていたおもちゃ屋さんからリクエストがあり、ルマン24時間レースに挑戦する千載一遇のチャンスが訪れました。
元来、レース好きなスタッフの集団ですから、これ幸いとルマン挑戦に傾注してしまい、瞬間的にスポーツカー・プロジェクトは忘れ去られたまま、現在に至っています。
またぞろ、金食い虫のレーシングカー開発に回帰してしまった童夢の命運は風前の灯でしたが、この、「童夢-零」やルマンへの挑戦に興味を持った自動車メーカーや関連企業からの業務委託が始まるようになり、おもちゃのロイヤリティ収入も激減しつつある中、苦しいながらも、何とか先行きに希望が見いだせるような状況となっていました。
当初はモーターショー用モデルの製作などが中心でしたが、評価が高まるにつけ、デザイン、設計にまで業務が拡大してゆきました。
レース活動においては、1983年からは、童夢としては初めて国内レースへの参加を開始、特に1982年から開発を担当したTOYOTAグループCカーによるレース活動は、ポルシェを始めとする並居る強豪相手に好成績を記録し、日本の耐久レースシーンを大いに盛り上げました。
1986年、TOYOTAのルマン・プロジェクトから外れたことをきっかけに、童夢はレース活動の中心をフォーミュラ・レースに移行しました。それにより、全日本F3000 選手権レースに参加すると同時に、F1マシン開発のシミュレーションモデルであるF3000用シャーシの開発に着手、試作、実験を繰り返したのち1991年よりオリジナルマシンの実戦への投入を開始しました。
一方、モーターショー用モデルの製作からスタートした自動車メーカーからの受託業務はますます業務範囲が拡大し、新型車輌の企画段階から参加し、デザイン、先行試作車開発から生産設計まで受託するようになりました。
これらの業務拡大に伴い、1987年に本社を移転、同時にかねてより念願であった25%スケールの風洞実験設備も完成し研究開発には理想的な環境を得る事が出来ました。
これにより開発能力も大巾に向上し、スーパースポーツカー 「CASPITA」や電力会社系のソーラーカー、EVの開発等の大型プロジェクトの受託も可能と なり、また、独自開発した風洞実験設備の評価が高まり、実験設備の受注等の新規事業も増えてきました。
1991年には本社内に新社屋を増設し、NCモデル加工設備やCFRP加工用オーブン等も導入し、受託業務への対応はますます充実した内容となってきました。
また、1994年には挑戦4年目にして純国産シャーシによる初の全日本F3000選手権チャンピオンシップを獲得したために、次のステップであるF1参戦 へ向けて純国産F1プロトタイプマシンの開発を開始、1996年に完成後ただちにテストを開始しました。
同じ頃、HONDAのレーシングカーの開発を担当する事となり1995年からJTCC用の「ACCORD」の空力を、1996年からは「NSX」のJGTC用シャーシの開発を行い、共に高い評価を得る事が出来ました。
1998年にはHONDAからオーバルコース用のフォーミュラカー及びレーシングスクール用の小型フォーミュラカーの開発を受託しましたが、特にこの小型 フォーミュラは童夢にとっては初の量産レーシングカーとなり、また、新たな業務分野に一歩踏み出すことになりました。
この頃、日本国内のレース産業の発展に限界を感じ始めていた童夢では、本場ヨーロッパでの活動を目指して、1999年バーミンガムで開催されたレーシングカーショー「AUTOSPORT INTERNATIONAL」に日本のコンストラクターとしては始めて製品を出品し、大いに注目を集めました。
2000年にはF1コンストラクターの必需品である50%スケールの風洞実験設備「風流舎」を滋賀県米原町に建設、また、2001年にはカーボンコンポ ジットの開発製造を行う「童夢カーボン・マジック」を静岡県三島市に設立。世界一のレーシングカー・コンストラクターを目指し、技術力、設備とも、ますます 進化のスピードは加速していました。
しかし、未だに拝外主義がまかり通る日本の自動車レース界の病根は深く、ビジネスとしての側面から見る限り将来に希望が持てません。それでも、これからもレーシングカーを造り続けたいのならば、レーシングカー・コンストラクターというビジネスを成立させることを諦め、他の方法で得た利益をつぎ込んでしか継続できないために、しっかりとした経済基盤が必要と考え、2005年、すべての童夢関連の施設を滋賀県米原市に集結し、また、タイに「童夢コンポジット・タイランド」を設立。レーシングカーの開発で培ったカーボン・コンポジット製品の開発/生産技術を主力とした新たなる事業展開を目指して体制を一新しました。
その後も、HONDAのワークスチームとして「HSV」の開発とレース活動を担当し、また、社長の林みのるは、日本の自動車レースの発展振興を願って、「技術と産業を育成することによって日本の自動車レースの発展振興を図る」ことをテーマに、2008年、日本自動車レース工業会を創立し、初代会長に就任。入門レースであるF4の活性化など幅広く活動しています。
2012年、林みのるは社長を鮒子田 寛に譲り特別顧問に就任。また、JMIAの会長もTOM’Sの大岩社長に交代し、最後の車造りとなるスポーツカー開発プロジェクトに専心する体制を整えつつ、2013年、これからの発展/成長を見込める子会社「童夢カーボン・マジック」と「童夢コンポジット・タイランド」を東レに譲渡し将来を託し、その売却益を投入してスポーツカーの開発に取り掛かっています。
そろそろ林みのるの時代は幕引きの時を迎えつつありますが、それは童夢の終焉とイコールではありませんし、日本で唯一の本格的なレーシングカー・コンストラクターは残こすべきだと思っていますが、この先については何も考えていません。
今、3年後のこのページを見ることが出来たら、どうなっているのか分かると思うのですが・・・・
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