1975年に誕生した童夢の最初の仕事は、“童夢−零”と名付けられたロードゴーイング・スポーツカーの開発でした。
しかし、その源流は遥か以前、創業者である林みのるの頭の中で既に始まっていました。それが初めて具現化されて世の中に姿を現したのは1965年のこと。ホンダS600を改造した“カラス”という1台のレーシングカーでした。
今にして思えば、このカラスに童夢の原点が詰まっています。当時まだ最新のマテリアルだったFRPを使っていたこと。そして空気抵抗を減らし、軽量化することが最善の策を睨んでデザインされていたこと−−。確かに19歳の少年がなけなしのお金でやれることには限りがありましたが、この最初のチャレンジが多くの人々を引き寄せ、新たなエネルギーとなっていったことは間違いありません。
そうした背景を元に生み出された童夢-零にもまた、今日の童夢を作り上げた要素がぎっしりと詰まっています。
人々を驚かせるインパクトに満ちていたこと。ロゴマークを含め細部に至るまでデザインと仕上げに拘っていたこと。モノコックシャシーや各種電子装備など、将来を見据えて積極的な技術開発に邁進していたこと。そして日本だけでなく、常に世界を見ていたこと−−。
その後、1979年に零の後継車であるP-2を携えアメリカに渡り“DOME USA.INC”を設立したことも、同年に零-RLでいきなりル・マン24時間レースに挑戦したことも、80年代に日本初の本格的グループCカーを開発し、TOM’S、トヨタとタッグを組んで世界の舞台で活躍したことも、カーボンファイバーの可能性にいち早く着目し、鈴鹿8耐用のオリジナル・マシン“ブラックバッファロー”を製作したり、オリジナルF3000を開発したり、他社に先がけて25%スケールの風洞実験設備を開発、設営したことも、すべては日本離れしたダイナミックな発想と行動力から生まれたものだったのです。
そして、その後のスポーツカーCASPITAをはじめとする様々な試作車やEV、ソーラーカーの開発。1994年から始まったF1への挑戦。1995年からのホンダ・アコード、NSXによるJTCC、JGTCの開発。さらにLMPカーによるル・マンへの再チャレンジや、50%スケールの風洞実験設備“風流舎”の建設、カーボン・コンポジット(CFRP)開発/生産のための“童夢カーボン・マジック”の設立など、これら一連の動きはすべて突発的に起こったものではなく、一連の流れと経験の蓄積があったからこそ生まれたものであることが、お分かりいただけると思います。
それはまた「自動車造りを楽しむ会社」として生まれた童夢が、自動車造りという“楽しい”産業を日本に残し、継承していこうとした努力の足跡でもありました。
2013年に産声をあげ、2014年から各地で走り始めた“マザーシャシー”と“FIA F4”は、そうしたクルマ造りの楽しさを、多くのユーザーに広めるために生まれた作品といえます。
これからも童夢は、レーシングカー・コンストラクターという業務を中心に置きながら、その開発で得たノウハウやアイデアを様々なジャンルに応用、活用していく“技術屋集団”として活動していきます。