Oct.09.2014
「株式会社 童夢では、創業者の林みのるの引退に伴う、その後の形を模索していましたが、この度、その概要が決定しましたので、お知らせします。」

林みのるとしては、本人はデザイナーのつもりでいますし、そのような創造的な能力には年齢的な限界があるとの持論から、かねてより「70の声を聞いて仕事はしない」と宣言していましたから既定路線ですが、童夢そのものの将来については明確なイメージを持つに至っていませんでした。

現在、近代的なレーシングカーを開発するには、かなり大掛かりな施設や設備や人材が必要ですが、わが国には、それを維持できるだけの環境は有りませんから、日本におけるレーシングカー・コンストラクターというのは、言わば、アフリカでストーブを売ったり南極で冷蔵庫を売るに等しい困難な事業です。
童夢は後半、50%スケール風洞実験設備やカーボン・モノコックの製造会社を擁して、総従業員数も200名に迫っていましたが、これは、わが国で、何の後ろ盾も無く、自社製のレーシングカーを開発してルマンに参加するために構築された必要不可欠な「システム」でした。
しかしこれは、先進のレーシングカーを開発するためには先進の技術が必要と言う当たり前の原理原則を追求してきた結果、それがちょっと先走りをしていたおかげで、その後、さまざまな産業からのニーズが追いついてきた結果であり、つまり、このシステムを構築してきたのは「先走り精神」ですが、カーボンの会社を作るときも風洞を作るときも米原に新社屋を建てる時も、成功率から言えば、ルーレットの赤か黒を5回続けて当てるくらいの確率でしたから、こんな荒くたい勝負は誰にでもできるものではないと思っています。
現在の童夢の技術も、常に新たなる先進技術に「先走り」していかないと、たちまち陳腐化してしまい、このシステムも崩れていきますから、つまり、いつまでもルーレットに賭け続ける勝負をしていかなければならない訳であり、また、常に勝っていなければ崩壊してしまう訳ですから、手前味噌では無く、このままの形の童夢を継承できる人材は居ないと断じていましたので、基本的には、収束、清算の方向で考えていました。

その為、かなり厚着になってしまった重ね着を一枚づつ脱ぐように、子会社や風洞の売却を推進してきましたが、そうこうする内に、それでも最終的には、童夢に、かなりの資産(金品というよりは、人や知財権やノウハウなど)が残ってくることが解ってきましたし、そうして、童夢のエッセンスだけを凝縮したような身軽な形なら、適切な後継者が居れば継続していく事も可能だと思えるようになってきました。
そうなると、私としては、かねてより日本のレーシングカー・コンストラクターの灯を消してはならないとは思い続けていましたので、いつしか、継続も視野に入ってくるようになっていました。

そんな頃、以前から童夢の継承を希望していた信頼のおける古くからの友人から具体的な提案がありましたので、ここ2年ほど協議と検討を重ねた結果、継承は可能であると判断するに至り、来春から共同で移管の準備を始め、2015年7月15日を目途に童夢を譲渡することを決定いたしました。

その継承者である井川高博君は、付き合いが古いだけに、その人となりは熟知していますし、自らもSFJやF4を駆っていくつかのタイトルを獲得しているほど自動車レースが大好きですし、10年も前から「もし、私が自由な立場なら童夢の後を継ぎたい」と言い続けてくれていましたし、何よりも、童夢を支え続けられる資金力を持っていましたから、私としては、もし継続を考えるとしても、後継者は井川君しか考えていませんでした。
もともと私はストレートな性格なので単刀直入に言わしていただければ、このように凝縮された童夢であっても、日本でレーシングカーに係わっていく以上、安泰なんて有り得ないし、続けていくからには相当の波風も予想せざるを得ません。
そんな波の谷間も乗り切れないようでは、ちょっとした困難な状況に遭遇しただけで倒産してしまいかねませんし、いくら適材であっても、資金力の裏付けのない人に童夢は任せられませんが、その点においても井川君は合格でした。

現在、その井川君は、着々と、かねてからの夢であった海外を中心とした事業の立ち上げにまい進していますから、童夢に常駐して指揮をとると言う経営者としての立場では無く、オーナーとして、経営を指揮する人材を投入して運営に当たると言う形になりますが、この形が安定的に機能するようになるまでの3年間くらいを目途に、現在の体制を維持しつつ、確たる次世代の運営体制を構築していきたいと考えています。
もう既に準備は進めつつありますが、本格的には2015年1月から半年間、私と井川君で全権委譲に向けての準備を進め、予定通り、私の60代の最後の日となる2015年7月15日までに全権委譲を実施したいと思っています。
なお、井川君の会社からの出向として臼井里会が取締役として加入します。海外に住む井川君の眼となり口となり手足となる役目ですが、臼井里会は、レース界での人脈に厚く、また、私とも井川君とも旧知の仲ですから、MOTUL並みの高性能潤滑油として機能してくれるものと期待しています。

 
2015年7月15日までの体制は現在と変わりません。

オーナー/特別顧問

林みのる
代表取締役社長    鮒子田 寛
取締役専務 武林繁夫
取締役     臼井里会(新任)
 
現在、2015年7月16日以降の体制については、以下の体制でスタートする予定になっていますが、確定次第に正式に報告させていただきます。

オーナー

井川高博
代表取締役社長    鮒子田 寛
代表取締役副社長 武林繁夫
取締役 臼井里会
取締役 中村卓哉
相談役 林みのる
 

このように、童夢は一つの時代の幕を閉じますが、さて、これからの童夢は、何を目的にどこに向かうのでしょう?
これからは、今までのような博徒渡世のような経営はまかり通らないと思いますから、堅実に経営して行けるような業容を構築していく事が急務となるのでしょうが、しかし我が国においては、レーシングカー・コンストラクターという業種が生息しうるのかという根本的な問題があるくらいで、それが事業として成り立つのかどうかという遥か以前の問題ですから、童夢も近年は、日本自動車レース工業会(JMIA)を創立したり、JAF-F4を支援したり、マザー・シャーシを開発したり、FIA-F4の生産に参画したりと、日本の自動車レースにもレーシングカー・コンストラクターが必要であると言うプロパガンダに明け暮れてきました。
先の鈴鹿1000Kmレースの時に、GTAが、このマザー・シャーシとFIA-F4の車両を発表しましたが、その会場に集まった人々から、やっとではありますが、「日本にもレーシングカー・コンストラクターがあったから、こんなレーシングカーが出来たんだ!」というような肯定的な反応を感じることが出来ました。
もう、私がリタイアする直前になっての明るい兆しは皮肉でもありますが、これからの童夢の目指すべき方向を示す一つの道標になったのではないかと思っています。

これからの童夢のビジョンに関しては、来春に、井川君から明快な指針がアナウンスされると思いますが、基本的にはレーシングカー・コンストラクターとしての活動を続けていく事になるでしょうし、今までのone-offのレーシングカーでルマンに挑戦と言うスタイルよりは、日本のレース界に必要なレーシングカーを供給していくと言う、地域に根差した活動に重きを置いて行きたいと考えています。

現在の米原の本社屋は昨年のM&Aの契約上、売却することが決まっていますから移転先を探していましたが、近隣地に、やっと理想に近い場所が見つかり、現在、購入→建設に向けて各種調整を進めており、現状では、2015年7月15日に棟上げ式を予定しています。
新社屋については、形が決まった時点で、別途、詳しくお知らせします。

童夢の第二章の脚本は井川高博しだいですが、かなり、無理に無理を重ねた砂上の楼閣のような童夢を、今後、井川君がどのように料理していくのか興味津々ですし、楽しみにもしていますが、何しろ、自動車レース産業には厳しいお国柄ですから、決して楽観しているわけではありません。
しかし、私もそうであったように、井川君も、自動車レースが好きだからこそ童夢を継承したいと思っている訳ですし、損得だけが判断基準ではありませんが、それにしても、事業として成立しなければ単なる道楽で終わってしまいますし継続も難しくなりますから、童夢が優良な企業に成長する事が、イコール、日本のレース界の活性化につながるものと考えていますので、私には欠片も無かった経営力を駆使して、日本の自動車レース産業を支える礎になっていただきたいと願っています。

林みのる