May.31.1999  「F1GP-NIPPONの挑戦」 STATUS REPORT



No.2


そのために童夢は無限の協力を得られるようにいろいろ努力を続けましたが、当時の無限はまだまだ強力なチームと組んで良い結果を追求すべき時期であった事と、私たちがなかなか本田社長に納得して頂けるような理想的な状況を作れなかった為に、その後、無限はジョーダンへの独占供給契約を締結し、当面、無限からのエンジン確保は難しくなりました。
そんな状況下、そのころますます高まりつつあるHONDAのF1GP復帰ムードに煽られるように私たちも照準をHONDAに転じ、オールHONDAでの本格的な参戦に先駆けて、童夢/無限による先行調査的な参戦を提案する「30年前の未来 - F1GP・希望に満ちた2000年を迎えるためのご提案- 」と銘打った企画書をHONDAに提出したり、関係各位へのアプローチを続けていましたが、その後、ついにHONDAは独自のチームによるF1GPへの復帰を発表し、無限エンジンはその存廃さえ定かでない状況となり、童夢/無限チームどころでは無くなります。
ここで誤解を招くといけませんので注釈を加えておきたいと思いますが、もちろん、これらの話は私が勝手に思い描いていたシナリオを、私が無限やHONDAに対して一方的に提案していただけであり、この件に関して協議を重ねていたと言う状況でもないし、無限やHONDAが一切その可能性について言及した事もありません。
また、私が無限エンジンにこだわっていたのも単なるプロトタイプにしか過ぎない「童夢F105」に大切なF1エンジンを貸してくださった事への筋を通していただけで、特に本田社長との間に特別な約束があった訳でもありません。
こうしてみると随分と独りよがりな思い入れだけで突っ走っていたように思えますが、当時、私はこの提案が、今後、日本がF1GPの世界で「まともに闘う」ため、つまり「オールHONDA発進の前提として必要不可欠なプロセス」だと信じていましたから、結構、臆面もなく持論を展開していました。
もっと言えば、私たちが1986年から築きあげてきたF1シャーシ開発技術の結実に時を合わせてのこのHONDAの動きは、何というグッドタイミング、何というラッキーと喜んでいたくらいですから、ちょっと今日の結末には思いが及ばなかったと言うところです。
しかし、この1998年のHONDAのF1復帰発表によって、当面エンジンの目処が立たなくなったのは事実ですが、この発表はまた別の意味で私たちに新たなる希望を与えてくれました。
このニュースの中でも特に注目すべきは、かねてより噂されていた「車体の開発・製造およびチーム運営までを含めた」挑戦というくだりで、これすなわち、常づね私が念仏のように唱え続けていた「そろそろまともに闘いませんか」と言うお題目そのものであり、非力な私たちに代わってHONDAがこの思いをかなえてくれると言う、ことのほか素晴らしいニュースではありました。
私たちの「F1GP NIPPONの挑戦」の基本的なコンセプトは、従来の外国の既存技術に頼ることを前提とした参戦方法から脱却し、自らの力で闘おうという趣旨であり、これがHONDAによって実現される訳ですから、私たちの願いはある意味では達成されたとも言えるし、また、ある意味で私たちは目的を失ったとも言えます。
しかし、童夢はレーシングカー・コンストラクターであり、本来、自社製のシャーシがF1GPを走れば満足する立場であり、好んで「オールジャパン」を目指していたと言うよりは、現状を憂えるあまりに本質論に固執していただけですから、このHONDAの参戦発表により、肩の荷が下りた(責任転嫁とも言いますが)と言うのが正直な気持ちでした。

>>>next page